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ちおん舎 催事予告

京都の縁創空間 ”ちおん舎” のイベント予告をお伝えするブログです

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井戸と文化の興隆

ちおん舎近くのさまざまの井戸を調べると応仁の乱後15世紀後半から16世紀にかけて、利休をはじめ、利休にいたるまでの茶人の姿が見えてきます。ふしぎなことに茶の湯の創始者の村田珠光は1432年生まれで1502年に死んでおり、その同年に武野紹鴎が生まれ、1555年になくなっています。そして、なんとその1555年にちおん舎を経営する㈱千吉商店が、法衣商として創業しています。
その時代、京都は、大きく上京と下京の二つに分かれて凝縮し,町人・武士・公家といった多様なひとびとがその狭い範囲内で生活するようになりました。文化活動にもその影響があらわれ,彼らは共に文化活動をいとなむことにより,都市ならではの文化が成立してきます。とくに下京では,町のひとびとによって祇園祭の巡行が再開して行われたり,市中に居宅を構え,茶湯を楽しんだことが知られています。20060628162607.jpg

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役行者山(えんのぎょうじゃやま)の井

またまたありました近くの井戸。ちょうど、ちおん舎の一つ東の通り室町通姉小路の役行者山の会所の庭にあります。神変大菩薩の人形を納めてある倉庫の西側で、石台形の花崗岩の井戸枠がある。行者影向の水と伝えられ、祇園祭のときには、その水を香水としていただかせる。

ちおん舎近所の井戸

名水をいろいろ調べていくと、ほんの近くにもその当時有名な井戸が、ありました。了頓の井と役行者山の井で、ちおん舎からほんの50mぐらいの位置にありました。了頓の井は廣野了頓宅にあった井戸といわれている。三条衣棚下るは了頓図子(図子というのは辻子とも書き、いわば横丁のような生活道路、大路小路の間をつなぐ短い裏道である) とよばれており、 江戸時代初期の地誌である「雍州府志」によると、足利家代々の従臣である廣野家は、将軍義昭、義輝の時代にこの地を受領した。その後、安土桃山時代になって、末裔である廣野了頓は、剃髪してこの地に茶亭を構え、茶道を広めた。当時、豊臣秀吉は、京へ入洛した折りに了頓亭を訪れ、茶を点じた了頓は、その縁で280石の知行をあてがわれた。
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本能寺三名水

ちおん舎の南西400Mに本能寺跡の石標があります。本能寺は,法華宗本門流の本山で応永22(1415)年妙本寺(現在の妙顕寺)の日隆が創建した。創建時は油小路高辻にあって本応寺と号した。永享5(1433)年四条坊門大宮に移り,本能寺と改めた。信長が、明智光秀に討たれた天正10(1582)年6月2日の本能寺の変の時には,北は六角,南は蛸薬師,東は西洞院,西は油小路に囲まれた寺域を持っていた。のち豊臣秀吉(1536~98)の命により寺町御池に移転した。
本能寺三名水は、この時代になづけられたと推測される。
肉桂水・化粧水・柳水が、本能寺三名水であるが、肉桂水(にっきすい)は、六角新町あたり、三井邸の西南隅に極めて清純にして香気ある井戸があったとしるされております。
化粧水は、現在、西洞院四条の東南角に石標があり、小野小町が化粧に使った水と記されております。
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化粧

柳井の水

ちおん舎の西南、現在の醒ヶ井との中間ぐらいの三条西洞院下るのその名も柳水町にあった井戸を柳井とよばれた。千利休が茶の湯に用いたもので,井戸のそばに柳を植えたためこの名で呼ばれるようになりました。柳は,その後この地に屋敷を構えた織田信雄(おだのぶかつ)が植えたとも伝えられています。
 江戸初期に,将軍徳川家光(とくがわいえみつ)に呼ばれて江戸へ行った松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)が,柳の水でないと筆が乗らないと言って家光の一筆の頼みを断りました。家光は家臣を密かに京にやって柳の水を汲み,もう一度頼むと,昭乗はただちに筆をとったので周囲が感嘆したという話が伝わっています。参考http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/fmindex/zikou_frame.html
現在、馬場染工の馬場さんが、新たに井戸を掘り、誰でも水をわけて頂くことが出来ます。柳井

この柳水は、本能寺三名水の一つといわれておりました。次回はあと二つの本能寺三名水を紹介したいと思います。

醒ヶ井

ちおん舎の西南500M四条醒ヶ井角に醒ヶ井という井戸があります。この井戸は和菓子屋亀屋良長(かめやよしなが)が,社屋改築の際に掘った井戸を醒ヶ井と名付け,菓子の製造に利用しています。しかし、昔の醒ヶ井は、六条堀川の左女牛町にあった源氏堀川邸の井戸であり、天下一の名水といわれた。村田珠光は、ちかくに居を構え、この名水でお茶を点てた。その後、武野紹鴎や千利休も愛用した水であった。村田珠光(むらたじゅこう,1423~1502)は、茶祖と仰がれ人で,唐物の持つ完全美よりも,国産品が持つ不完全さに美を求め,備前焼や信楽焼(しがらきやき)などの粗相な器を茶湯に取り入れました。 また,珠光は,一休宗純(いっきゅうそうじゅん,1394~1481)に参禅して体得した禅の精神をもって,茶禅融合を提唱し,座敷飾などを極力簡素化した質素な美を追求しました。四畳半の茶室をつくったのも、珠光といわれています。

 醒ヶ井1

醒ヶ井1

菊水井

菊水井は、ちおん舎の南東約500Mの四条室町を少し上った(京都では北に行くことを上るという。)所にあった。古くは室町後期の茶人で武野紹鴎(たけのじょうおう,1502~55)が、24歳で上京しここに居を構え,三条西実隆(さんじょうにしさねたか,1455~1537)に古典を学び,茶湯は村田珠光(むらたじゅこう)の弟子である十四屋宗悟(じゅうしやそうご)から手ほどきを受け,四畳半の侘び茶をさらに簡素化し小座敷などを創作し,草庵茶湯の法度をつくりました。
そして、この井戸水をお茶をたてるのに使いました。現在は、写真のような石標がのこされ、またこの菊水井からとった名の菊水鉾が、祇園祭になるとこの石標の前に建てられます。
菊水井

茶道

茶道のお稽古をはじめ1年がたちました。ちおん舎で、茶道教室をはじめたのを期に、お稽古をへんなおじさんSさんと一緒にはじめました。
足の痛さも、次第に慣れてまいりました。しかしながら、年をとると物忘れが激しく、いつも何かをとばしてしまって反省ばかりです。
ちおん舎のちかくには、茶道に関係した名水が、三ヶ所あります。醒ヶ井、菊水井、柳水とよばれる井戸です。それだけこの京都の真ん中の水は、古代よりすばらしい水であったと思われます。次回から一つ一つ紹介しようと考えております。
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「ちおん舎」という名は、「温故知新」より「知」「温」を、また「千」「智」や「音」「恩」の意味も含ませました。私たちが育まれてきた伝統をもう一度見直し、その智慧を現代の生活に活かすことと、和の文化を伝承することを志して、展示会やコンサート、茶会、茶事、茶道教室など、様々な文化活動の情報発信拠点になることをめざしていきたいと思います。

ちおん舎のホームページ


ちおん舎催事記録


吉右衛門ブログ ”温故知新”


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